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幻覚少女と、先の道




■しおり■

#01 "新しい生活、新しい出会い"




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#01 "新しい生活、新しい出会い"
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私は今いつにいるのでしょうか。

私は笑う。いつまでも。
私は泣く。果てもなく。

目に見える景色は赤い。
夕焼けよりも赤く、真夜中より黒い。

暦は、いつも黒く塗りつぶされている。
太陽と月がいくつも並列して並んでいる。

今私が、今を生きているのもわかる。
今アナタが、ココにいるのもわかる。
今ココが今の場所であるのもわかる。

けれども私は…今ここがいつなのかがよくわからない。
わからない。わからない。

―――…ねぇ、教えて。ココは今、いつなのでしょうか?


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「おはようございます!」

威勢のよい挨拶が、室内に鳴り響く。

「おはよう中野!」
「おはようございます、中野さん」

室内にいる成人の男女が一様に挨拶を返す。
皆笑顔で、今日という日を迎えている。

「ん~~~!よし、今日もいっちょ仕事しますか!」

そういうと、中野叶は自らの職務へと移行した。

ここは、八千代区某所にある心療内科のデイケアを行う施設。皇龍院メンタルケアクリニック、デイケアセンター。
中野叶はそこに務める男性職員である。そして、室内にいる成人の男女は、医者と看護師とヘルパースタッフである。
彼は白のポロシャツに、黄土色のチノパンを履き、前掛けをしている。
格好だけは清潔だが、ヘルパー施設に似つかわしくない仏頂面が、特徴的だ。

(いよいよメンタルヘルス担当フロアになったんだ。ここまで来るのに一年かかってしまったが、配属することがで きた。今まで以上にがんばろう!)

中野は背伸びをして、ストレッチする。利用者が来る時間までまだ時間がある。
今日来る利用者を確認し、仕事前の臨戦態勢を整えていた。

この施設は、一階~六階まであり、一階が認知症疾患、二階がアルコール中毒、三階が依存症類、四階~六階がメン タルヘルスフロアである。四階~六階については、上層階になるほど精神疾患の重症度合いが上がっていく。
基本的に職務内容はどのフロアも変わらない。
専門性は医者と看護婦が担っているため、多少の変化はあれど、ヘルパーの職務内容に差異は生じないのである。
ちなみに、中野の配属先は、六階である。

(……おっ、今日は女の子が来るのか…うわ、可愛い…。可愛い女の子とは…俺も中々運があるな。病んでいても可 愛けりゃ目の保養だぜ)

(まぁ、一応、プロフィールは確認しておくか。どのフロアも接触ケアってあったし…。えーと、何々。16歳、通信 制高校、…うーん、3サイズは載ってないか。残念。けど、この胸部写真から察するにかなり大きい気が…。いかん いかん邪念が…。って、邪念しかねぇな俺は)


(さて、どうしてこんな可愛い子が、このクソみたいな施設に来るってんだ?…ん~、えっ!統合失調症!? いや いや、マジかよ…え、しかも俺の担当は重症患者フロアだろ?ってことは、まじかよ…)

統合失調症には主に三パターンの症状がある。
パターン1、妄想型
パターン2、緊張型
パターン3、破瓜型
の3つである。
妄想型が一般的な統合失調症のイメージだ。
発言の文脈がおかしい等の症状や自閉の症状は目立たず、幻覚・妄想症状がメインで、三十代以降に発症する遅い型 である。
緊張型は、不自然な姿勢でガチガチに固まり、体が一切動かなくなる昏迷状態と、いきなり堰を切った土石流のよう に無目的に暴れ喚きだす興奮状態を一定期間交代で繰り返す型。
破瓜型は主に十代、二十代が多く、発言の文脈がおかしい症状や言動の挙動不審が目立つ型で、末期になると感情表 出や自発行動が徐々に失われ人格荒廃に至るとされる。
この少女の場合、年齢的には破瓜型と思われるが、カルテに記載せれている薬物療法に効果がある点や幻覚・妄想の 症状がほとんどな点を見ると、妄想型に当てはまるのだろう。

(原因はお医者様に任せるけど、一応気になるな…。
カルテを覗くらいはできるし、ちょっと見てみるか。えーっと、家族歴は…主になさそうだけど、いじめにも合って ない…。
病前性格はとても明るく、悩みもない様子だった…発症前に事故などで人が死ぬといった過度にストレスがかかる状 況もない…。
ん~、てことはある日前触れもなく突然なったってことか。いくら原因不明の統失でも、そりゃねぇだろ…いや、俺 もよくわかってないけどさ)

統失の説明。

(いや、でも、この妄想内容は何か、俺の知ってる症例と違う気がするな…。
目に見える景色が赤くて、居もしない死体や悲鳴を上げる人々が見える。
声も悲鳴や懇願の声が四六時中聞こえて、カレンダーや時計の字が読めない。
けれども、本や書類など時間や日付と関係ない文章は読める。
…たしかに幻覚症状が目立つが、半分ほど異色な気がする…共感覚っぽいし、もっと脳みそとかの器質的な問題にも 思える…)

まぁ、悩んでいてもしょうがねぇか、と中野はつぶやいた。
今まで、認知症フロア、アル中フロアと渡ってきた中野が、一年で身につけたアンサーだった。
患者個人の症状にまで考えこみ、接するのは不可能だという答え。

仕事の役割が役職で分割されている以上、それは基本中の基本だった。
ただでさえ、ヘルパーという仕事は重労働であり、その上で、いろいろ考えるのは無理に等しい。
入社当時は、最大限サポートしようと意気込んでいたために、こんな初歩的な考えすら中野には思いつかなかった。
入社当時は精神病を忌み嫌い、それを根絶すると思っている中野だったが、それを実行に移すにはあまりに怠けすぎ た。医者になろうともせず、カウンセラーへの道も、入社半年で面倒くさくなって諦めた。
その結果がヘルパーであり、その処遇を享受してしまった以上、ヘルパーとしての職務を全うするのが一番である。
一年間で中野はそれを学んだのだ。

利用者のリストとスケジュール表を棚にしまい、時計を見る。
出社してから30分が経過し、時刻は九時を過ぎていた。そろそろ利用者が来る時間である。

「中野、おはよう」

利用者が来るまで暇なのでカウンターで突っ立っていると、突然女性が不遜な声音で中野に挨拶をした。
一番初めの利用者ご来場である。
30代半ばだが、そう思えない可愛い童顔をした女性で、フリフリの黒いドレスを着込んだ少々痛い格好をしていた。

「今日も姫のご来場である。どうだ、今日も決まっておるか」

「はは、最高ですね。惚れちゃいます」

「ふふん、そうであろう。なんせ、昨日は宇宙から来た浦島太郎が、右上の左大臣より東に来たのだから。私とて、 そんな大層なことがあったのなら、礼節を持って、スキップせねばなるまい」

「へー、そうだったんですか。それでどうしたんです」

「よくぞ聞いてくれた!左下から来た海洋類が言うには、私が正面玄関で土下座しているというではないか。ならば 、南に行くべきだろうと思い、月からの使者と挨拶を交わしたのだ」

「へー…なるほど」

「でだなでだな!背後からぺんぺん草が列をなして来たものだから…」

「ストーップ!ほら、こっち行きますよ北大路さん。とりあえず着席してください!」

女性ヘルパーが現れ、フリフリ女子の発言を静止する。

「むむっ、なんたる無礼か。私は第七惑星から来た暴君であるぞ!何故…」

「わかりました。わかりましたから、こっちこっち」

同僚の女性ヘルパーがフリフリ女子…ならぬ、北大路を席まで連れていく。
連れて行く途中で、

「それと中野さん!だめですよ、昨日の研修会聞いてたんですか?まともに相手しちゃダメです。思い出してくださ い、感応性妄想性障害を!」

と女性ヘルパーは中野を叱咤する。
感応性妄想性障害。それは、俗にいう精神障害者のそばにいると精神障害が移るという俗説を正当であると証明する 病である。
端的に言えば、統合失調症のそばにずっと居ると、その人まで統合失調症的な妄想症状が発症してしまうというもの である。

稀なケースだと言われているが、こういう環境なため、注意は必要だと中野は研修会で言われた。
具体的な注意としては、重度の統合失調症の利用者との接触において、話を理解しようとしたり、ずっと話し込むこ とをしないというものである。あくまで聞き流す程度で納めておくようにと注意を受けたのだ。

ケアの一環で接触は避けられないが、まともに話を聞いてあげないのを前提としている。
矛盾だらけだが、これもスタッフの安全を考えてのことだろう。

北大路さんを皮切りに、続々とフロア内に利用者がやってくる。
統合失調症、解離性障害、人格障害…。バリエーションの多さは、臨床心理学の教科書に引けをとらない。

中野が以前担当していたフロアは、重度障害というより、認知症やアル中がメインだったため、普通の老人ホームに 勤めている感覚だったが、この4~6階はそれと比べて異質だった。
これこそが、精神病院に付属するデイケア施設の特色といえよう。

「おはようございます中野さん。今日もがんばってください」

「中野様!今日はシチューの座談会をしたい!」

「ベス!ベスベス!ベヤァーッス!!」

「うるせぇ…今日もコイツいんのかよ… それと…はよ、中野」

真っ当な受け答えができる者、言ってる意味がわからない者、様々である。
利用者は、利用フロアに到着すると、職員に声をかけてから、自分の席につく。
フロア内は、七割を長机の列が占拠し、残りをスタッフが駐在するカウンターやカーテンで隠れたロッカー兼更衣室 、その他機材置き場となっている。
長机には椅子が三個ほど配置され、利用者の名前が机に貼り付けてある。利用者は自分の名前が入った席に座る。

「おっす!おーっす! 北大路!」

「なんだ唐突に… 私は今忙しい。北方領土から来たる伝説のスカラー波が右耳から侵入しようとしているのだ」 「わはは、なんだそれー」

「えぇい鬱陶しい!触るな!カルラにあるエイハザードがだまっておらんぞ!」

北大路さんと、小さい少女が戯れている。
小さい少女の方は、名を冠里美といい、141cmで童顔の見た目に合わず、19歳である。病名は演技性人格障害。
自分に注目が向けられないとストレスをためておかしくなる病気である。外見的にも、人物像的にも目立つよう努力 するため、化粧や服を派手にしたり、妄想虚言を絶えずいう傾向にある。

童顔ペアがわけのわからん会話でじゃれ合っているのを見ると、子供のじゃれあいにしか見えない。
が、本気で文脈がおかしい支離滅裂なセリフで会話しているために頭がおかしくなりそうである。

「はぁ…まともに相手すんなっつってもなぁ…それデイケアじゃねぇよな… でも相手できるほど会話できる自信ね ぇし。言ってることわかんねぇから、もう頭おかしくなりそうだぜ」

たしかにこのような環境で、受け流すスキルが無ければ、おかしくなってしまうのは当然なのだろう。
とはいえ、こんな重度な精神疾患の人たちを一箇所にまとめて治療するなど、そんな豪気な施設は他にあるのだろう か。中野は、たまにそう思うが、面倒なので考えるのをやめた。

「さて、中野さん。今日も一日よろしくお願いします。このフロアに来てから一週間が経過しますが、仕事は把握し ましたか?」

中年の女性スタッフが、眉間にシワを寄せウンウン唸る中野に声をかける。

「…いえ。特に問題はありません。基本は他のフロアと変わらない印象なので、専門的なところ以外は概ね問題あり ません」

「結構。では、がんばってください。本日は、10時から、朝礼。12時から、昼食。13時から芸術療法を行いますので

、いつもどおりリラックスして業務にあたってください。芸術療法以降のスケジュールは、いつもの張り紙を見てく

ださい」

「はい。わかりました」

そう返事をすると、中野は早速、利用者の確認と一日のスケジュールを確認し始めた。
利用者がひと通り揃った所で、朝礼が始まり、空き時間が訪れる。

「おい中野ー、話相手になれー」

中央の長机に座る25歳茶色い長髪の女性から声が掛かる。大江戸黄泉子、既婚で大学四年生である。現在休学中。
上下紺色のスウェットで、色気はみじんもなく、花の女子大生としては涙がでる無頓着さだ。
もっとも、デイケア施設において、色気を演出する必要はみじんもないわけだが。

大江戸に呼び出され、中野は女性の元まで向かう。

「かぁー。ったく、やってらんねぇわマジ」

「大江戸さん、おはようございます。どうされました?」

「おお、来たな中野。いやな、アタシはなんの異常もねぇと思ってんだが、なんだかしらねぇが、こんなキチガイば っかの施設に放り込まれてよ。やってらんねぇってんだわ」

「はあ…えっと、そうっすね。じゃぁ、そういう診断くだした人間を見返してやりましょうよ。さっさとここから出 られるように」

「だーかーらぁ!私は悪くねぇってんだよ。なんで見返す必用があるんだ」

「うーん、そう言われましても…ご家族の方の承認と本人の同意のもと入所されてるわけですし、このまま無理やり ここを出たとしても、ご家族の方は納得しませんよ。それに大江戸さんだって、同意したわけじゃないですか」

「まぁ、渋々な… はぁ、だよなぁ…あいつらが納得しねぇとな…アタシにゃあそこしか居場所がないわけだし…」

大江戸黄泉子は、統合失調症を患っているが、症状自体は軽度である。
軽度だが、下層フロアが定員割れしていたため、治療内容が大枠で同じ重症フロアへ割り当てられた。
精神疾患というデリケートな治療施設なはずなのに、フロアの割り当てが雑なのは、この施設のお粗末さ加減を物語 っているといえる。

「あー、そういえばよ、今日ってまた新規入所者が来るって話だろ?」

「あ、はい。そうですけど、どっからそんな情報知ったんですか」

たいした重要性のない情報だが、本来知り得ない情報を患者が知っているというのは、情報管理の雑さ加減も仄かに 匂わす。

「いやいや、ちょっと盗み聞きしてただけだ。で、どんな奴なんだよ。またキチガイが増えるのはかんべんして欲し いんだが…」

「そんなことあり…あー…統合失調症、ですねぇ…。かなり重度なので、大江戸さんは近寄らないほうがいいです。 これは偏見じゃなく、心配して言ってるので」

「あちゃー…マジでか。わーってるって、ありがとな中野。アタシ自身、統失で参ってる部分もあるけど、北大路み たいな重症者と一緒にいたら、もっと頭おかしくなっちまうことはわかる。仕事とはいえ、心配してくれてサンキュ ーな」

「いえいえ。大江戸さんは美人さんですので、早く治ってほしいんですよ」

「はは、いっちょまえに口説いてんのか?年下のくせに生意気だなぁ」

「むっ、これでも社会人二年目ですよ。人生経験はあなたよりあるつもりです」

「拗ねんなよ。つか。人妻口説くなんて、大層な野郎だなテメェは… っと、もう朝礼の時間じゃねぇか?」

「あはは、すみません。そう、ですね。 じゃぁ、僕は一旦仕事に戻りますね」

「わりぃな付きあわせて。またあとでな」

「はい、ではまた」

中野は、すぐに朝礼の準備にとりかかる。
機材置き場からホワイトボードを取り出し、利用者たち全員が見える位置に配置する。
ホワイトボードには、左側半分に大きく一日のスケジュールを簡単に書きだしていた。
認知症患者のフロアと違い、こちらは自発行動ができる人間が多いため、過保護的な接触は少ない。
そのため、スケジュール内にお誕生日企画などのお遊びイベントはない。あくまで朝礼は新旧の入所者らに全体の掌 握をしてもらう程度に留めてある。
本日はこのスケジュールの他に、新規入所者がいるため、その紹介のための空白スペースを中野はホワイトボードに あけておいた。当人がやってきたら、名前を書いてもらうためスペースだ。

ひと通り、記述作業を終えると、先ほどの中年女性スタッフが前に出てくる。

「はい、ちゅうもーく!それでは、朝礼を始めます!」

中野と会話した時の淡白な声音からは想像もつかない明るく大きな声がフロア全体に響き渡る。

「えー、本日のスケジュールはこんな感じになっています!基本的にいつも通りなので、今いらっしゃる方たちに説

明はいらないと思います!治療プログラムや昼ごはん以外は空き時間で特に何もしません。そのため、あえて覚えて おく必要もありません。気になる方は、壁に書いてある全体スケジュールを見てください!ちなみに、このフロアで は本日芸術療法を実施いたします!別のプログラムを受けたい方は、掲示板に張り出してある他フロアの予定表を確 認してください!」

全体スケジュールの説明が終わると、中年女性スタッフから他のスタッフに合図が送られる。
合図を受けたスタッフは、カウンター正面にある出入り口から、一人の少女を連れてくる。
黒髪に赤い瞳の美しい少女だったが、デイケア施設に似つかわしい、白いTシャツに、Gパンという地味な格好をして

いた。

「えーっと、本日からもう一人、ここのフロアで一緒に生活してもらう仲間が増えます!自己紹介をお願いしますねっ」

中年女性スタッフが、マジックペンを渡し、ホワイトボードに名前を書くように促す。
少女は自分の名前をホワイトボードに書き、利用者らの方へ向き直す。

「はい、じゃぁ、皆さんに自己紹介をしてください」

「わかりました。本日からお世話になります、傀儡寺輪廻です。よろしくお願いいたします」

「はい、傀儡寺さんありがとうございました。えー、というわけで、新しい仲間も増えますが、本日もまたよろしく お願いします!」

少女はペコリとお辞儀をして、スタッフに席を案内される。
少女は、大江戸の横の席となった。

「お、おう、よろしくな傀儡寺」
(うげ…あんま接触したくなかったのにこっち来やがった…中野ォ~~~)

大江戸は、苦笑いで挨拶して、ホワイトボードの前にいる中野の方をギロリと睨んだ。

(う、うわ、睨まれてるよ… 恨まれても俺にゃどうすることもできねぇよ…このフロアじゃまだ下っ端だし…)

中野は目をそらして、頭を抱える。
そんな中野を見て、大江戸はため息を付き、傀儡寺の方へ向き直す。

「? …あの、よろしくお願いします」

一連の動作を理解できない傀儡寺は、腑に落ちない表情で大江戸に挨拶をした。

「あ、あはは、わりぃわりぃ、なんでもねぇ…。 まぁ、よろしくな」

「いえ…。あのお名前は何というのですか?」

「あ?あぁ、そういえば名乗ってなかったね。アタシは大江戸黄泉子。あの世の黄泉に、子供の子だ。夕日に輝く黄

色い湖がある観光地で出来た子だから、こう名付けたらしいが、縁起でもねぇよなぁ…」

「いえ、そんな…。素敵な名前だと思いますよ」

少女は音もなくニコリと笑う。
自然にゆっくりと微笑を浮かべ、元々可愛らしい顔だったため、その笑顔は絵になった。
絵になったけれども、どこか不気味な雰囲気をまとっていた。
大江戸は少し鳥肌を立てた。

「お、おうよ。ありがとな。っと、そうだ、わからねぇことがあれば、何でも聞きな。アタシは、もう半年はココに 通ってんから」

「そうでしたか。わかりました、その時はよろしくお願いします」

それ以降パッタリと口を閉ざす少女。
会話が続かない。
大江戸は、とりあえず、交流せずに済むと思い、ほっと胸を撫で下ろす。

(…ふぅ。なんとか大丈夫そうだな……。これ以上アタシの病状が悪化するのだけは避けたいし、このまま無口でい てほしい感あるなぁ)

(…ん?いや、ていうか、思ってたよりおとなしいなこの娘。中野の話じゃ、かなり重症らしいが、北大路みてぇに ワケのわからんことを口走らないし、受け答えも普通だ…。まだ早計だが、本当に統失なのかコイツ)

大江戸は、中野に聞いていた病気と彼女のソレが違うと思い、わずかに違和感を感じる。
もちろん、ファーストコンタクトで病気を断定することはできないだろう。

しかし、表面上に表出しない段階の病気進行度ならば、まずこの階層のフロアにはいない。
この階層にまで来ると、殆どが妄想垂れ流しの、わけの分からない発言をする人間なのである。

「えー、では。お昼ごはんまで、いつもどおり自由に過ごしてください」

中年女性スタッフがそう声掛けすると、利用者一同は自由行動にうつる。
となりの者と雑談を始めるもの、読書をするもの、喫煙をしに行くもの、皆バラバラに行動し始める。
北大路は、中野に手招きのジェスチャーをし、喫煙所まで呼びつける。

喫煙所はフロア内の機材置き場付近に喫煙室という形で配置されている。
これも精神科付属のデイケアならではの設備で、リラックスして治療に望むために、(一部を除いて)タバコの制限は 患者に対して設けられていないのである。

「あ、えっと、大室さん!」

中年女性スタッフこと、大室に中野は声をかける。

「はい、なんですか中野さん」

「え、えっと。北大路さんに一緒に吸わないかって呼ばれたんですけど…」

「…あ、そう…わかりました。行ってもいいですよ。ただし吸い過ぎや長居は厳禁です」

「わかりました。気をつけます」

大室は渋々中野の喫煙を承諾する。
本来なら、スタッフの喫煙室使用は禁止されているが、大江戸の説得(?)により、中野は特別に許可された。
なんでも、中野と喫煙しながらお喋りしないと、ストレスで暴れそうと半ば脅迫まがいなことをしたとかなんとか… 中野はそれを大江戸に聞いて、そっかーと流すことにした。
中野にとって面倒事は避けるべき事案なのだから、スルーは基本である。

上司の許可をもらって、喫煙室にまで向かう中野。
大江戸は既に喫煙室で、ピースを吸っていた。

「うーす。また会ったな中野」

「ども、またです」

喫煙室につくと、中野はポケットに入れていたエコーを取り出し、一本口にタバコを咥える。

「チッ、またそんな湿気たタバコすってんのかお前… 給料もらってんのに、三級品買うってどうなんだ」

「仕方ないじゃないですかー。学生時代からすってますから、愛着があるんですよ」

「んな数値高ぇ安タバコすってんと、すぐ肺がんでおっ死ぬぞ」

「余計なお世話です。 まったく、口も柄も悪い割に、お節介ですね大江戸さんは」

「うるせぇバーカ。てめぇ、誰のお陰で仕事中にタバコ吸えるようになったって思ってんだ」

「あっ、それ持ち出すのはズルいですよ!そこは感謝してますけど、僕の喫煙嗜好に対する口出しは受け付けません 」

「チッ、どうなっても知らねぇからな…。 さて、本題だが、あの傀儡寺って実際どうなんだ?」

「どう、と言われましても…。 今日からなんで僕にはなんとも…」

「そっか。まぁ、そりゃそうだよな。 でもよ、アタシは何か統失って感じねぇんだが…」

「あっ、やっぱりそうです?」

「あ?」

「いや、なんていうか、彼女のカルテを拝借したんですけど、僕も変だと思ったんですよねー…なんとなく」

「そっか。お前もそう思うか…。まぁ、確証もなんもねぇから、アタシは接触を少なくする方針を変える気はないけ

ど」

「そうしてください。大江戸さんは寛解期に入ってますから、そう長くここにいる必要はありません。このまま問題

なく悪化させないほうがいいです」

「ん。わーってるって。アタシもさっさとココから出たいしよ」

「よろしくお願いしますね。…さて、傀儡寺さんですが、まぁ僕も気になるんで、声かけてみますよ。他の入所者さ んたちとの問題も出てきますし」

「よろしく。 まぁ、一応世話になってんからな、報告までに言ってみただけって感じだ」

喫煙を終え、大江戸は自分の席へ、中野は仕事へと戻っていった。
その後の大江戸は、いつもどおり、悪態をつきながら、のほほんと日常を送り、
中野は、たんたんと職務をこなす。

もともと人付き合いが苦手な中野だったが、適当に流し、適当に過ごすだけで、案外物事はうまく進むということを この職場で学んだ。ケセラセラとはうまく言ったもんである。
利用者向けの昼食の発注や、フロア内の清掃、備品の買い出しなどをこなす一方で、その適当スキルを生かして、利 用者との交流も欠かさない。
デイケアである以上、交流も職務の一貫なのである。

昼休み、中野は例の少女と話をしてみた。

「…あー…、あの。少しいいですか?」

中野の声掛けに、傀儡寺は表情を変えず反応を示す。

「はあ、どうもです。どうしたのですか?」

「いや、まぁ…あなた達とお話するのも僕の職務なので。まぁ、雑談も仕事ってことです」

「そうでしたか。随分暇なお仕事なんですね」

「はは、まぁそれ以外も仕事あるんですけどねー。まぁ、お話しましょうよ」

「わかりました。私も暇ですし、お話しましょう。そうですね、あなたのお話を伺いたいです」

「僕の、ですか?」

「えぇ、そうです。私はあなたが気になります」

「そうなんです?」

「そうです。私の目はおかしいのです、だから私はここへ連れて来られました。私の目は、歪んでいる。今見えてい る景色も、なにかおかしいとおもいます。この施設は、真っ赤に染まっている」

「赤…? この施設に赤いものはそんなにありませんよ?」

「そうでしょう。私もそう思います。そして、これもあなたには見えていないでしょう。死体があちこちに転がって います。生きている人間も、アザだらけ、切り傷だらけに見えます」

「…」

「ほら、違うでしょう?私は、しゃべっている人間としか話さない。なぜなら、あるはずのない死体と生きているで あろう人間の区別がつかないから。こんな目になってから、周りからは異端視され、終いにはこんな施設に来る羽目 になりました」

「じゃぁ、僕から話しかけたから、こうやってお喋りしてくださってるんですか?」

「いえ…。あなたの場合は違います。あなたは、傷もアザも血も見えない人間だったからです」

「…はあ、そうなんですか。なんででしょうね」

「わかりません…。以前も、社会科見学で刑務所にいった時、そういう人間を見たことはある気がしますが、どんな に考えても何故なのかはわかりませんでした」

「です、か。まぁ、のほほんとここで過ごして、治療を受ければ良くなりますよ(多分)」

「そうなんですかね…。まぁ、そうなんでしょう。…とりあえず、お話しましょう。原因がわかるかもしれません」 「わかりました。お話しましょう。僕の何が知りたいですか?」

「そうですね… あなたの生い立ちと、本心からの自己PRを知りたいです」

「なんだか就活みたい… ま、了解です。そうですね、僕は、神無河県の鐘沢書庫で生まれ…――」

それから中野は、自分の出生から今までの人生、自分の性格、印象的な思い出などを簡単に話していった。
ひと通り話すと、傀儡寺は口を開いた。

「はぁ…まぁ、なんというか適当で平凡で、おもしろみのない人生ですね」

「うるさいですねぇ… これでも頑張ってるんですよ」

「気に触ったのならすみません。…まぁ、手がかりになりそうにないですね」

「へいへい、そーですか…。まったく、聞いてる時といい、全然統失っぽくないなぁ」

「…そうでしょうね。でも、あなたも知っているでしょう、統合失調症だって、妄想型になると固有妄想以外は正常 な人間と区別がつかないんですよ」

「そりゃ知ってますよ。伊達に心理学科出身じゃないよ。諦めちゃったけど、昔は臨床心理士目指してたんですから ね。 けど、それでも君のは何か違う気がするんだよなぁ…」

「なるほど…だから焼けにお節介な世話を焼くんですね…付け焼刃的な知識で」

「はいはい、知ったかお節介でごめんなさいね。けど、大体わかった。君の症状も気になるし、上司の医師に相談し てみる。必要なら、君に集中的にケア担当を回してもらうから」

「ありがとうございます。私も、こんな景色が見える目から早く解放されたいですし…」

「それにしても、いきなり慣れ慣れしいですね…途中からタメ口でしたし…それでも社会人ですか?」

「む、失礼な。これでも1年以上ここに勤めてるんだよ。なんか、君とは長く付き合う羽目になりそうだから、ラフ に行こうかなぁと、不快だった?」

「不快ではありませんが… というか口説いてるんですか?気持ち悪い」

「口説いてねーよ!! わかった。じゃぁ、このまま君とはタメで行くよ。仲良くなるために、大丈夫そうな人はタ メで話してるんだ。よろしくね」

「はい。こちらこそ」



数日後。
中野は、利用者たちへの芸術療法の補助スタッフをしていた。


「あ、中野さん」

20代後半の緑色に髪染めをして、ポニーテールに結んでいる女性から、声が掛かる。

「どうしました、西島さん」

「あ、えっと、これってどうすればいいんですか?」

「あぁ、西島さんは初めてでしたか…。えっと、こちらの用紙に…――」

西島良華。27歳。統合失調症疾患中で、主に恋愛妄想が見受けられる。
西島財閥のご令嬢だが、今年に入ってから、勤め先で奇行に走るなど、しばしば統合失調症の症状が現れる。その状 況に見るに見かねて両親が強制入院を決行。
そして今に至る。

中野は知らないが、西島良華の奇行とは、中野へのストーキング行為である。
良華は、真面目で仕事も卒なくこなす美女だったが、ある日から無断欠勤をするようになっていった。
欠勤中は金で物を言い、中野の家へ度々不法侵入し、掃除や洗濯を無断で行なっていた。(もちろん適当な中野はそ れに気づいてはにない) 終いには中野の両親に結婚の挨拶に向かう始末となった。
そんな娘の状況に危機感を覚えた西島夫妻は、中野家への口封じや精神病院への入院手続きを行った。

中野の両親は中野以上に適当で、金を掴まされて、普通に沈黙を承諾した。
病院先が中野の勤め先と同じというのは偶然ではなく、西島夫妻の手回しである。
西島夫妻は娘を跡継ぎの装置としか考えておらず、当主としての見込みが無いと判断した後は、病状を加味した上で 直ぐにくっつきそうな男の下へ娘を放り込むことにしたのだ。治療と跡継ぎの両方を手に入れられる一石二鳥の策で ある。
中野が六大学出身で、親も大手企業の社員という中程度優良物件だったこともあり、跡継ぎが継ぐまでのお飾り社長 にはちょうどいいだろうという判断らしい。もちろん、この腹の中は実現するまでは、誰も知らない思惑である。
良華自身は、この状況は両親が祝福してくれていると勘違いしているため、暴走は止まることがない。


「うふふ、ありがとうございます。中野さん」

「いえいえー。これも西島さんのためですからね」

「うふ、うふふ、私のため…うふふふふ。中野さん、わたくしのことは良華と呼んでください」

「あ、はい。良華さん」

「ふふふ、はぁい、中野さん」


「チッ、またアイツか… おい中野、こっちにこい。北大路の面倒は私だけじゃ無理だ」

「おお!中野か!今日も月光の使者らしく、ドロドロ轟いておるな!苦しゅうない、近う寄れ」



「あー、今行きますよー大江戸さん、北大路さん。ごめんなさい、良華さん」

「はい、大丈夫ですよ。中野さんは最後は私を選んでくださいますから」

「? はい。 えっと、それじゃ」

「うふ、うふふふふ」


「はーい、どうしました大江戸さん。北大路さんのことで何かお困りですか?」

「どうしたもこうしたもねぇよ。お前また西島なんかに絡まれてたのか」

「? はい、そうですけど…」

「はぁ…お前自覚あんのか?アイツはヤバイからやめておけ。仕事でももっと離れた距離を保つべきだ」

「どうしてです? あ、もしかして嫉妬ですか?」

「たわけたこと言ってんじゃねぇよ。お前アイツのカルテ見ただろ」

「えぇ、一応職務ですし…。といっても、地位越権行為ですが」

「んな道徳どうでもいい。で、そこに、恋愛妄想過多って書いてあっただろ」

「ありましたけど、それは入所前の話ですよ。お相手の方も、ご両親のお力で良華さんと会うことのない対処された

ようですし、大丈夫ですよ」

「そんなわけねぇだろ…ありゃ恋する女の目だ。相当座ってるが… だから気をつけておけ」

「そうですか? んー、そんな感じしないけどなぁ…まあわかりました。気をつけます」

「…はぁ、危機感ねぇなぁ…まぁいいや。忠告はしたからな」

「はい」

「はぁ…まぁいいや。…あ、そういえば、昨日パチ屋に行ってみたんだが、新台来てて盛り上がったぜ」

「何やってんすか… 旦那さんに止められてたでしょう」

「うるせぇな、借金するほど遊んでねぇからいいだろ。アイツは商社勤めだし、私らが住んでる所も妹多ヶ病(せた がや)で世間体気にしすぎなんだ。こんくらいの息抜き、金もち芸能人だって普通にやってる」

「ただでさえ、酒にタバコに中毒ってるのに、パチンコまでジャンキーしてどうすんですか。馬鹿なんですか」

「ほっとけ。んなことより、その新台がよ、魔報処女リトルこのはだったんだけどさ、お前の知ってる奴か」

「…よりによって萌え台で盛り上がったんスカ…えぇ、まぁ知ってますけど」

「原作ってアニメなんだろ。面白いのか?」

「面白いですよ。まぁ、僕は、ですけど」

「いいんだよお前が面白ければ。私は暇なんだ。なんかネタがほしい」

「ネタって…」

「時間も障害年金もあるし、暇を潰すにゃちょうどいいんだ」

「ちょ、障害年金を無駄遣いしないでくださいよ。小遣いじゃないんですよ」

「小遣いだよアンナモン。ここの金も、病院代もアイツが出してんだ。私のところにきた金を私が勝手に使うのは勝 手だ。バイト代より安い金貰ったって、糞の足しにもならん」

「相変わらず暴虐武人だなぁ… それも血税からなんですから、ほどほどにしてくださいよ」

「チッ、はいはい。わかりましたよーだ。で、だ。あの、このはとフェストって出来てんのか?百合?なのか…?」

「はぁ、本当にわかってんのかなこの人… えぇ、公式は否定してますが、途中から百合化が悪化してますね。それ でですね…――」

自由奔放な大江戸とは裏腹に、中野は呆れつつもサブカルトークに興じる。
大江戸が、大学生で被扶養対象であるにもかかわらず、障害年金を受給できているトリックは、中野自身よくわかっ ていない。
そもそもこの制度について詳しく知らない中野は、言及する気もない。
なので、気にも止めず、サブカルトークに興じているのだ。

「…はぁーん。なるほどね、そういうアニメか」

「えぇ、そんな感じですねー。どうです?」

「んー。よくわかんねぇけど、プリキュマみてぇなもんだろ?」

「…まぁ、そうっすね」

「んー。プリキュマなら、娘と見てるし、面白ぇって思ったしな…まぁ見てみるわ」

「そっすか。僕的にはオススメなんで、暇なら見てください。めんどかったら、劇場版もやってたんで、そっち見る と手っ取り早いですよ」

「はぁ!?劇場版!? すげぇな…オタク産業も劇場版進出か…」

「最近のオタク産業なめちゃ行けませんよ。AiReあたりから、調子乗って劇場化増えましたし」

「AiRe? あぁ、お前が進めてきたエロゲか…。お前ふざけんなよ、既婚者にエロゲ進めるってアホじゃないのか? 」

「でも結局やったんでしょ」

「……あぁ。やったよ…。悔しいが面白かった。あれで絵が歪んでなければ最高だった」

「あはは、そりゃあの絵師の味ですから、仕方ないです」

「味…ねぇ」

「ほぅ…えろげぇの味とは、異な事を言う…」

「ゲッ、来たな北大路」

「私もえろげぇには詳しい。冴恵の詩というげぇむがあってだな。正方形のカンタービレがガンドをクラッシュして 、背後からケチェンと叫びながら来た時のことだった…」

「だった…じゃねぇよ!語りだすな!」

「むぅ、つれない奴だ。せっかく私のバッガダン秘伝帳を語り聞かそうと思ったのに…」

「はは、いやぁ、最高っすね北大路さん。カンタービレが何でしたっけ?さすが美麗豪胆な北大路さん、マジパネェ っす」

「バッ、おめぇ真剣に聞く気もねぇのに、適当に煽てるんじゃねぇよ。また北大路が…」

「ふふん、ならば仕方あるまい。私の怪異版録を聞かせてやろうぞ」

「へぇー、いやぁ、北大路さんのお話が聞けるなんて、僕ぁツイてるなぁ」

「であろう、であろうとも! ふふふん、では、あれは第五ホールの夕暮れ…」

「はぁ…やってろアホ共…」

それから数十分、芸術療法が終わるまで中野は大江戸や北大路とのサブカルトーク?を楽しんだ中野は、
当然ながら上司にこっぴどく怒られた。
が、そんなことはお構いなく、のほほんと中野は次の仕事に移る。
適当とは、後にも先にも人生を楽しむための最大のスキルである。別称をスルースキルともいう。

説教とは、それを要約した一文、教訓を頭に入れておけば、あとは装飾語だらけのゴミみたいなものである。
そう心から思っている中野は心から考えている。

それから就業時間まで、中野は仕事を淡々とこなした。

「これが、私の社会人ライフである。…なぁんてな、参った…フロア変わっても、やっぱ飽きるなこの仕事」

中野は家につき、自室のオフィスチェアで独り言ちる。

「…仕事覚えて、適当に流して行ったら、なんだか思いの外暇になってくる。もともと要領がいいから、三年も待た ず仕事慣れしちまった…。ある意味じゃ、認知症ケアフロアのほうが刺激的だった…」

中野の大学時代の成績は、オールA。
通常、大学の成績はF、E、D、C、B、A、A+で評価されている。
Fが途中棄権、Eが欠席、Dが落第、Cが61~70、Bが71~80、Aが81~90、A+が91~満点と評価付けされている。
中野は、教授へのごますりはもちろんのこと、すべての授業は必ず出席し、小テストも事前に問題を予測し、高得点 をとっていた。授業選択も、記憶力が勝敗を分ける試験での得点評価な授業ではなく、出席点が高くレポートで出せ ば大丈夫な授業や、元々シビアでない授業を選び取っていた。
そのため、成績を気にしない大学生に比べ、非常に高得点を獲得していた。要領だけは誰よりもいいタイプの人間で ある。

A+じゃないあたりが味噌である。

「…まぁ、老人の生殖器やウンコをまた見たいかと言われれば、ノーサンキューだが… うぇ、老人の性器とか、未 だに自慰の妨げになる…」

中野は、今日あったことを振り返る。

「ふぅむ…今日もいつも通りだったなぁ… 大江戸さんも相変わらず、北大路さんは相変わらず面白かったなぁ」

「あっ、あと傀儡寺さんが今日から来てたな…えーっと、どこだったっけ」

中野は、本棚から青いホルダーを取り出す。
ホルダーには、利用者全員の個人情報がずらっと挟んであった。
一人につき、コピーされたと思えるカルテ数枚と、大量にメモ書きされたルーズリーフが数枚ある。

「ふぅむ、まぁ越権行為だし、そもそも職務違反だけど、まぁこんぐらいはいいよな。バレてないし」

「はじめは臨床心理士になるために、くすねて、必要そうな情報としてちょこっとコピーしただけなんだけど、」

「いつの間にかそれも諦めて、なぁなぁで過ごしちまったからなぁ… 結局、個人情報を覗く趣味の足しに」

「なっちまったなぁ…。…ま、いっか。下手な小説より面白ぇもんコレ」

カルテには家族歴を始めとした個人情報と、、初診時の状態像や診断された病名、経過など事細かに書いてあった。
精神病は基本的に個人のエピソードによって起こるものが多いため、些細な体験談も細かく記載されている。
いわば、その人の人生そのものが書かれている。下手な小説より面白いのは当然である。

「うーむ…、初診時のカルテは、聞いた通りだな…。途中経過も変わりは無さそうだが、」

「んー…これは初診以外で明確な決め手がないまま、とりあえず入所パターンだな…町医者特有の囲い込みか」

町医者特有の囲い込みとは、患者をなんかしらの理由をつけて、病院にとどめておくこと、及び、留めておけない場合は薬や検査で出来る限り金を捻出させることをさす。
大学病院や名のある病院に比べ、ローカルな町医者は収入が少ないため、こうした方法で留めておかないと経営が赤字になるという話は珍しくない。他にも、薬をたくさん処方したり、検査をたくさんしたりして、金を捻出させることもある。

「ここはないと思ったんだけどなぁ… ま、いっか。とりあえず、今日思ったことをルーズリーフに書いておくか」

「カルテの情報だけじゃ、わからないこともあるしな…持ち前の心理知識と直感で、気づいたこと書かないと」

中野は、利用者で気になったことをルーズリーフに記載して、今後のケアの参考にしていた。
カルテのコピーと、ルーズリーフは、精神科のデイケアで働く中野の、“職務を円滑に進めるため”の武器である。

「…とりあえず、傀儡寺さんは統失じゃないっぽいな… 妄想型の節はあるけど、違う気がする」

「最初の印象は大事だ。初回面接ってカウンセリングでも重要だしな…。受け答えは普通、異常も幻視以外なし」

「…雰囲気は暗い、というかクールだが、根は明るそうだ。ズバズバ人に言ってくるし…」

「あ、あと、スタイルは普通。顔、可愛い。うん、最高だ。世話を焼こう」

そうつぶやくと、中野はルーズリーフに★マークの赤いハンコを押す。世話焼き対象の印である。
適当な中野だが、下心に底はない。
きっちり可愛い子を把握しており、たとえ可能性ゼロだとしても、世話を焼いて、退所後に恋仲になることを夢見てたりしている。
無論、恋仲はご法度である。言うまでもない。

「…まぁ、無理だろうけどな……ま、可愛いからいっか。イカレてても、可愛い子と喋れると癒されるし」

「可愛いと言えば、うちの施設って美人多いよなぁ…この★ハンコもこんなに使うはめになるとは思わなかったぜ」

「境界例人格障害は美人が多いって聞くが、実はメンヘラって美人が多いんじゃね?やべぇ、テンション上がる」

無駄に欲望に忠実な中野である。
適当に生きるというのは、流動性に長けているということであり、流動性に長けているとは、気の向くままに、欲に 忠実ということである。

「まぁ…俺が欲に忠実じゃなくとも、数少ない男もおっさんしかいなくて、大半の女性が美人ばっかだったら、こう なるぜ絶対」

ケラケラと一人で笑う中野。

「しかし、どうしたもんかなぁ…大江戸さんはもうすぐ退院するにせよ、彼女がいなくなったら利用者さんの味方が いなくなっちまうなぁ」

「フロアの喫煙室も結構悪くなかったんだがなぁ…ここは意を決して、おっさんと仲良くなるか。だるいなぁ」

「…。あー…他にも問題は山積みだな…傀儡寺さんとか北大路さんとか…ケアの方向性が思いつかん…」

「…まぁいいか。とりあえず言われた仕事はやってるわけだし、いつもどおり適当でいいか」

中野の独り言はポロポロと口からこぼれていく。
思えば、ヘルパー職を選んでから、職場の同僚と利用者以外に喋った記憶が無い。
実家に帰るのも億劫になり、かつての学友たちとメールするのもかったるくなった。
その結果、彼は自分の部屋でつぶやく独り言が増えていった。

「……寝よう。今日もなんかダルい…」

ただ流れる時間を受動的に過ごす日々。
彼は今日もまた、眠りについた。電気を消して、布団に入る。

「………」

寝息も立てず、ただただうつらうつらと眠りにつく。


たしかに、彼の日常に小さな変化があった。
職場が変わり、新しい人と出会う。
新しい人は傀儡寺。どこか不思議な少女だった。
流れに逆らわず、惰性で生きている。小さな変化があろうと、きっとそれはいつもどおりの日々なのだろう。

中野はそう思いつつ、意識を失った。


……その小さな変化がこの先どのような悪夢を生むか、惰性に生きる中野には見当もつくはずがなかった。


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