鎌倉・江ノ島小旅行3

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【散策日】2014.05.05


[目録]

▼序章▼
◆鎌倉◆
●総評●
★行った場所★




▼序章▼


最近むしゃくしゃしていたので、鎌倉に行くことにしたのです。
黄金週間にSekika・ASFOUR(♂)氏とですね。学生時代の友達です。

一週間前から予定を立てて、誰と行くか悩み、Sekikaさんかkawajanzさんかの二択に絞りました。
そして、各々の予定を聞き出し、いろいろな事情と思惑を鑑みて、結局Sekikaさんと行くことになったのです。
ちょうどSekikaさんが仕事を初めて一ヶ月した頃、ストレスで十キロ痩せたと聞いたので、
ちょっと気になっていたというのもあります。アルティメット・ダイエットですよ、一晩で白髪並の恐怖です。
いろいろ愚痴きいて、「やっぱSEって大変なんだなぁ。。。」と思いますた。
その10日後、SEの内定を僕は蹴りました。
正確には、推せば受かったけど、引き下がった、です。取締役曰く
「君の考えや面接の対応とか印象良かったけどさ、その後の飲み会で他の社員はダメだと思うって
 不安の声が出たんだよ。で、それでもOKだったら内定出すよ。最終的には君次第だけどどうする?」
だそうで。
しぶしぶ引き下がりました。入る前から印象最悪なのに、そこに飛び込むってメンタル強者すぎだろ。
コミュ症直したら、入れてやると最後に心強いお言葉をいただけたので、これからも就活頑張りますよ。

まぁ、どうでもいいことですね。このコーナーでは。
スルー&スルーです。
では、引き続きお楽しみあそばしてくださいませ、っと。





◆鎌倉◆

一時に鎌倉駅集合して、そのままなんとなくぶらつきました。今回もまた「なるべく歩き」縛りで鎌倉探索です。
とりあえず、Sekikaさんの趣味嗜好を考えて、佐助稲荷神社を目指して歩くことにしました。

Sekikaさんは、学生時代に映画研究会的なサークルに入っており、作風とビジュアルに造詣の深い人でした。
それもあってか、廃墟探訪などの趣味を持ち、古風な建造物に大変興味があったそうです。
なので、僕が鎌倉探訪で景色的に一番感動した佐助稲荷神社に行くことにしました。

てくてく、てくてく、とアテはあれど、アタリだけで歩くこと数十分。
御成通りを突っ切って、なんとなく大仏近くまで来ました。
休日と合って、小町と江ノ電前は満ち満ちに人が混み入り目に余る状態でした。
大仏まで続く大通りも、人人人で若干鬱陶しかったです。

とりあえず、稲荷までは遠いので、目についた建物や地図に載ってる近くの施設に行くことにしました。
はじめに行ったのは、吉屋信子記念館。


吉屋信子記念館














大正時代に流行った、百合の先駆けである「エス=女性同士の友情、恋愛未満の感情、もしくは関係のこと」で
一世を風靡した吉屋信子さんの記念館です。
『花物語』や『屋根裏の二處女』などが有名で、
プラトニックな同性愛を美しい文章で表現することに長けていたそうです。
とはいえ源太郎、百合は好きだがその文化の歴史を知るほどに没頭しておらず…
Sekikaさんの説明を「へー!」「なるほどー!!」という風にしか返答できなかったり。。。;;;
花物語のイラストと、タイトルは、以前百合男子だかなんかで拝見つかまつった気がしないでもなかったので、
ちょっとその辺の詳しい情報がしれて嬉しかったりしました。

この建物自体は、吉屋信子さんが晩年を過ごしていた別宅を改装したものらしい。
死後、彼女のパートナーである千代さんが鎌倉市に寄付したのだとかなんとか。
大正~昭和を生き抜いた御仁のお宅とあって、レトロな和と洋のマッチ感が実に心地よかったりする。
当時のセンスがどういうものだったか知らないが、僕の感覚ではかなりいいセンスの持ち主だったと思う。
広い庭を見渡せる和室なんか、記念館でなければ一日中和菓子と緑茶でのほほんとしていたに違いない。

ちなみに、入館料は無料で、館内に一人案内人のお婆様が鎮座していらっしゃる感じだった。
わからないことなどは彼女に聞くと色々教えてくれるかもしれないです。
館内の展示品は写真にもある通り、彼女の作品や年表、どういう人となりだったのかなど、
彼女についての解説板と縁ある品の展示を主なものとし、
あとはどういう空間で晩年を過ごしたのかが知れる別宅見学、と言った感じだった。

これをきっかけに、彼女の作品でも図書館で借りて読んでみようかしら? かしらかしらごぞんじかしら?@リンク

吉屋信子 -Wikipedia-
吉屋信子 -Never-







吉屋信子記念館を出て、すぐに、文学館に行こうという話になりました。
吉屋信子記念館の近くに文学館があるからです。
出てからしばらく歩くと、住宅街の一角に木々の影で薄暗くなった門が登場します。
門で、お金を払い()、緩やかな坂を登ります。
種々な木々をくぐり、趣あるトンネルを通ると、ミステリー小説に出てくるような洋館と洋風庭園が現れます。
そうです、ここが鎌倉文学館です。


鎌倉文学館










かつて、加賀の前田さんが別荘として使っていた建造物で、
今は鎌倉に集まっていた物書き(鎌倉文士)の歴史を取り扱う資料館だそうです。
三階建ての綺麗なお屋敷がひとつ、その前に庭とバラ園があるシャレオツでハイカラな所でした。

もとは加賀百万石で有名な前田家(侯爵 前田利嗣)の別荘(1890-)があった場所だった。
しかし、前田家別邸は家事で失われ、侯爵 前田利為が1936年に洋風に全面改築した建造物らしいです。
しかも施行は竹中工務店ですよ。ゴイスーですねぇ。。。
その後は、デンマーク公使や佐藤栄作(総理大臣)の別荘としても使われたそうですが、
前田利建が鎌倉に寄贈し、外観をそのままに内装を補修改修し、1985年に開館したそうです。
2000年には有形文化財に指定されたとかなんとか。

当時、横須賀線開通(1889)し、都心と鎌倉の行き来が便利になっていました。
その流れに乗じて、鎌倉には東京で活躍していた物書き・文学者である文士さん()たちが集まり、
執筆活動に勤しんでいたそうです。
その当時は、関東大震災後で都心部は壊滅状態だったため、
都心に比べればまだマシな被害状況だった鎌倉に文士たちは居を移した、という経緯があるそうです。

戦時中は民に字と知識を広め、食い扶持を確保するため、貸本屋(鎌倉文庫)経営を鎌倉で行っていたそうです。
貸本屋では、あの川端康成氏が店番を務めていたりしたそうです。行きたかったですねぇ。。。
社会人運動会のような催しも行われていたそうで、鎌倉近隣で文士が集まって綱引きなども行っていたそうです。
和服に身を包んだ渋いおじさんたちが、たばこを加えながら綱を引いてる写真が展示されていましたが、
なかなかシュールな光景でした。
そういえば、昭和期では、社会人運動会が活発だったと聞いたことがあります。
たばこを加えながらマラソンしている映像など見たことがありますが…普通だったんですかね。

そんな彼らについて、鎌倉縁ある文学者・小説家たちについてを展示・解説している資料館が、
この鎌倉文学館です。



あいにく館内の写真撮影は禁止されていたため、こちらに載せる写真がないのですが、軽く説明します。
館内では、鎌倉ゆかりの小説家と、実際にこの文学館にいた文士たちの作品をメーンに展示されていました。
本物の原稿などを拝見することもでき、作家さんたちの生きた書体を拝むことが出来ました。
もちろんワープロなどない時代ですので、彼らの書き込みは今見ることは少ない生きた原稿のように感じました。
ほぼ殴り書きのようになっているので、丁寧に書いた字と雰囲気は違うかもしれませんが、
彼らがどんな字を書くのかを見れたのもなかな楽しかったです。

原稿や初版本展示以外では、彼らに縁ある品や、解説板がひしめき合っていました。
三階建てであるにもかかわらず、公開が許された区画は、一階と地下のみでした。
一階は展示品、地下は大半を展示品コーナーに割り当てられ、
一区画を映像資料コーナーの上映会場になっていました。

僕が行った時は、愛で文を説く、ようなテーマの特設展示がありました。
三島由紀夫に関することも展示され、なかなか面白かったです。

文学館は、展示物や館もさることながら、庭もバラ園もなかなか見応えがあります。
興味がある人は是非立ち寄ってみてください。
 ※なお、写真時はバラシーズン前だったので、今ひとつ花量が足りませんでした(苦笑















あと、どうでもいいかもですが喫煙所について。
文学館内に喫煙所はありますが、文学館の裏手にあります。
若干わかりにくいので、庭先にある館内図を確認するか、警備員のおじさんに聞いてみてください。





ちなみに、実は文学館は他にも全国各所にあるそうです。
日本各地にある文学・作家にまつわる社会教育施設を指し、
縁ある建造物を筆頭に、その土地に縁ある作家の資料館として、各地に施設化されてるそうです。
神奈川県は、鎌倉の他に、横浜市に神奈川近代文学館と大佛次郎記念館などが有名であるそうで。

鎌倉文士 -Wikipedia-
鎌倉文庫
鎌倉文学館 -本家HP-
鎌倉文学館 -Wikipedia-
川端康成 -Wikipedia-







文学館を出たあとは、黙々と佐助稲荷神社に向かい歩を進めました。
文学館も記念館もそうですが、
有名観光地以外を目的地として行く鎌倉は大抵が住宅街を突っ切る形になることが多いので、
方向音痴には苦行かもしれません。実際、文学館から佐助稲荷神社までは大した距離もなかったわけですが、
ちょっとばかし迷いました。

住宅街をグイグイ突っ切り、例の分かれ道へ、左を佐助、右を弁天。
当初の目的通り、左の佐助にまずは行くことにしました。
そうして辿り着いたのが少なめの千本鳥居。 そう、こちらが佐助稲荷神社。


佐助稲荷神社







まぁ、以前の鎌倉探訪で紹介したので、あまり説明はいらないと思います。
一応、この神社の説明としては、
 「鎌倉幕府開設以前からの古社。当社の神霊が頼朝の挙兵をうながしたとされ、
  佐殿(すけどの、頼朝の呼称)を助けたとの意で佐助稲荷と名付けられた。」
らしいです。Wikipedia曰く。
もとより鎌倉の神社にしては神秘性の強い場所だとは思いましたが、
幕府以前からあるものだとは思いませんでした。納得。

当初の予想通り、Sekikaさんも、この神社は気に入ってくれたようで、パシャパシャ写真を撮っていました。
よかった、喜んでくれて。

佐助稲荷神社







佐助稲荷神社を満喫したあとは、十五年くらい行ってなかった銭洗弁財天さまを拝みに行こうという話になりました。
十五年前、僕がまだ小学校の時、千円札を銭洗い場で失くしてから、行ってないのです。
小学生にとって千円札は、国家予算よりも大きな大金でした。それをなくしたショックははかりしれず、
帰路は失意と恐怖の中で流出しそうになる小便を我慢しながらブルブル震えていたのを今でも覚えています。
そんな曰く付きの場所ですが、今回は意を決していくことにしました。

銭洗弁財天









前回もお話しましたが、弁天様は江戸時代の江ノ島では、別称をおまんこさまといいます。
なので、おまんこさまーおまんこさまーと喚きながら入場するのがルールです(大嘘

それはさておき。画像を見ていただけるとわかりますが、まぁ混んでる混んでる。
不況なご時世だからでしょうか、コミックマーケットの便所並びレベルに人が並んでおります。
一洗い数倍程度(千円を洗うと、数千円返ってくる)のご利益しかいただけないのに、この並びよう。
藁にも神にもすがりつく、とはこのことでしょう。

あまり人が多いので、今回は諦めました。金洗う程度で30分以上並ぶなんて馬鹿らしいです。
そんなに洗いたきゃ、黄金週間じゃなくて、平日に行きますよ。
ちなみに、境内にあったミニ神社の狛犬さんは、横浜銀行の寄付?お布施?らしいです。
銀行の活動にこんなのが入ってたなんて、びっくりですね。

境内には、売店もあり、そこで、謎の江ノ島サイダーと鎌倉うめサイダーを二人で購入しました。
若干江ノ島で飲んだしらすマンゴーソーダの恐怖があったので、足がすくみましたが、
飲んでみたら名の通り美味でした。小銭に余裕が有る方は、ぜひ飲んでみてはいかがでしょうか。



さて、忘れてましたが、例によって例の如し、解説。
起源は頼朝が、巳年の巳月の巳日(1185年、旧暦04月の06日)に天啓を授かる夢(霊夢)を見て、
その夢のお告げに従い、佐助ヶ谷の岩壁に湧く霊水を見つけたそうで。
そこに洞窟を掘って神社を建てて、宇賀神様を祭ったそうです。それがこの銭洗弁財天の始まり。
銭洗の曰く(金を洗うと、倍になって金が返る)がついたのは、
北条時頼がこの霊水で銭を洗って、一族繁栄を祈ったことがきっかけだそうです。
ちなみに、宇賀神は、日本神話に登場する宇迦之御魂神や民間信仰の神あたりを由来とし、
後にこの民間信仰っぽい神が、比叡山延暦寺の教学に取り入れられ、仏教の弁才天と習合・合体されました。
この合一神を宇賀弁才天と呼び、現在各地にある弁才天信仰へと続くようになったそうです。
そして、頼朝が霊夢を見た日は、巳が3つも続く縁起日です。
巳(へび)は、弁財天ゆかりの生き物です。弁財天の使いは白蛇で、
それが転じて巳の日に願い事をすればその願いが弁財天に届くという言い伝えもあるそうです。
そこから鑑みるに、頼朝様が見た日は、トリプル巳とトンでもなく弁財天的に縁起のいい日なのです。
日本神話を始めとして、日本の古いお話や伝承には、語呂合わせ縁起合わせが多く、調べると中々面白いですね。

ちなみに、こちらは弁財天様が寄越した佐助ヶ谷の霊水ですが、
佐助稲荷神社の方は佐助ヶ谷の田畑を潤した霊狐の神水だそうです。
なんだかややこしいですね。
どういう経緯かは知りませんが、地理的にこの佐助ヶ谷って場所は神秘性の高い土地なのかもしれません。

弁才天
銭洗弁財天宇賀福神社
宇賀神
巳の日
鎌倉 (旧鎌倉郡) の歴史を訪ねて 鎌倉 銭洗弁天から佐助稲荷へ







弁天様を出たあと、早速どうするか考えてみる僕とSekika氏。
とりあえず、駅まで行って考えよう!的な話になり、長谷駅まで向かうことにしました。

するがや バターどら焼き



長谷駅に行く途中、するが屋というお店でどら焼きアイスが売っていました。
僕は金がなかったので;;;、とりあえずバターどら焼きというモノを一つ。
写真ではバターが溶けてさも美味しそうに移っていたのに、届けられたのはおみやげ用にラッピングされたドラ…。
できたてで暖かくもなく、中のバターも給食のマーガリンを彷彿とさせるアレでした。
なので、普通よりドラあんがまったりしっとりした程度で、何の変哲もないどら焼きでした。;;
いやおいしかったですよ。

Sekika氏は、アイスの方を食べていて、僕もそれを一口味見しました。
「失敗した、百円ケチらないで、こっち買っとけばよかった」この一言につきます。

するがや







話の流れで江ノ島行こうぜー的なノリになりましたが、
駅についてから源太郎の資金が底をつきそうな事に気づく。。。マジですか。
おまけにテンションも下がり気味で、申し訳ない状態に。すまぬSekikaさん。。。

長谷駅(断念)

結局江ノ島に行くことを諦め、僕が鎌倉に来たら一度は行く八雲神社と荏柄天神に向かうことに。







さて、目的の八雲神社につきました。
この掃除はしているけど、際立った改修工事をしていない寂れた様相が僕は大好きです。

八雲神社






たいていの神社は、腐食防止のため、漆喰やら何やらをこれでもかと塗りたくり、
小奇麗さを保ち、古さを感じさせないモノが多くあります。鶴ヶ岡八幡宮がその典型ですね。
無論、腐食防止は必要ですし、神のおわす場所ですので、そういった小奇麗さも神秘性に必要なのかもしれません。
しかし、僕は昔を感じさせる古い雰囲気がすきなのです。
そういった意味でこの八雲神社の寂れすぎず、汚すぎず、きれいな古い神社という体はベリーマッチしてるのです。
行ってみて、細かいところに目をやると、地震に関する看板など色々ありました。結構配慮されてるんですねぇ。
時間が遅かったこともあり、社務所は閉まっていたため、おみくじは引けませんでした;残念orz

解説ですが、
八雲神社は、牛頭天王・スサノオを祀る祇園信仰の神社です。
社名は、スサノオの詠んだ歌である「八雲立つ出雲八重垣妻籠に八重垣作るその八重垣を」の八雲に、
因むものだそうです。
江戸時代までは、牛頭天王社と呼ばれていたが、明治時代の神仏分離の流れで、牛頭天王という社号が禁止され、
結局、弁財天や蛭子同様に、牛頭天王と習合されていたスサノオに変え、
社名をスサノオに因むモノにしたそうです。
八雲神社自体は、全国に数十とあり、中でも鎌倉には、4社の八雲神社があるのだとか。
今紹介しているのは、その中で一番有名な、駅チカの八雲神社です。
「日本最古の厄祓い神社」がキャッチフレーズだとかなんとか。。

八雲神社 -Wikipedia-







妙本寺













寺が目についたので、とりあえず行ってみよう的なノリで、ここに来ました。
金剛力士像(仁王門)と林並木で有名な、妙本寺です。
夕暮れ時は金剛力士像や本殿がライトアップされ、なかなか雰囲気があります。

この時、すでにかなり日が暮れ始めていたため、あまり境内を散策できませんでしたが、
比企一族にゆかりあるモノを中心に、いろいろとあるみたいです。

解説ですが、
ココは、今はこのような侘寂を残す閑静な寺院ですが、その昔は北条家と因縁のある一族のお屋敷でした。
この周囲は現在は比企谷(ひきがやつ)と呼ばれていますが、
その昔(鎌倉時代)は比企能員一族がこの一帯に屋敷を持っていました。

比企能員(ひき よしかず)は、源頼朝に仕えた御家人で、頼朝の乳母である比企尼の養子にあたる。
妻は頼家(二代将軍)の乳母、娘は若狭局。若狭局は頼家の妻となり、頼家の子、一幡を産みます。
その経緯もあって、源氏と深い関係を持つことになるのですが…
まぁ、いわば将軍の嫡男・直系を巡る乳母ネットワークの中枢にいる御家人だったと言えます。
しかしこんな経緯があるせいか、同じくして将軍の嫡男・直系を牛耳っていた北条家と揉めることになります。

いがみ合っていた最中、二代将軍の頼家が病気で倒れ、次代将軍の後継者争いが始まります。
結果、謀略と知略に長けた北条家が一枚上手だったため、比企一族は惨敗してしまいます。

北条家に追い詰められた比企家は、屋敷に火を放ち、一族もろとも自害してしまいます。もちろん一幡も共に。
これを比企能員の変と言います。

この後、能員の末っ子であった能本は生き残り、京都へ行き、順徳天皇の下で仕えるようになります。
しかし、「承久の乱」(討幕を目論んで惨敗した乱)の首謀者の一人として活躍していた順徳天皇は
将軍の怒りを買い、佐渡へ島流しされる事に。それもあって一緒にいた能本までも佐渡まで行くことに。

ここまでわかる通り、権力者につく強運の持ち主なのに、敗軍に付きやすい性質のある一族だったっぽいですね。
その後、4代将軍九条頼経の妻に、頼家と若狭局の間に生まれた竹御所(娘)がなったことで、一族は許されます。
彼女が、頼朝最後の血縁だったと言われています。
竹御所は出産と共に死に、遺言として自仏像であった釈迦如来像を祀るための新釈迦堂の建立を言い渡します。
この新釈迦堂が今の妙本寺境内にある竹御所の墓がある場所に作られたと言われています。
新釈迦堂の前は、竹御所の館があった場所だとされています。

okadoのブログ: 源頼朝の血筋の断絶・・・竹御所の死:妙本寺

しばらくして、能本が日蓮に帰依し、菩堤を弔うために屋敷を献上し法華堂を建立します。
これが妙本寺の前身です。この後ココは日蓮宗の重要な拠点となり、
鎌倉以降の激動の時代を乗り切り、今日に至っているそうです。

妙本寺 - Wikipedia-





ちなみに、この寺の下には、ひきがやつ幼稚園があり、やたら厳格な建物に物怖じしてしまいます。
きっとここで育った園児たちは、渋い顔をしているに違いない(偏見
ここまで来てあれですが、わかりましたか? そうです。
この近隣が、「やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。」の比企谷くんの名前の元ネタです。


また今回は行きませんでしたが、
似た名前に、妙法寺という寺が鎌倉にありますが、その説明を一つ。


妙本寺と同様に、日蓮宗の寺ですが、寺としての縁は、妙法寺の方が仏教っぽいです。(妙本寺は歴史寄り

その昔、日蓮聖人さんらが鎌倉に布教しに来て、政府や他宗教を批判しまくったそうで。
そのテロリストのごとく強行な教えに対し、幕府からしっぺ返しを喰らい、焼き討ちにあいます。
これは以前、日蓮聖人の説法跡で説明しましたね。

その焼き討ち後、法華堂をたて、再興を図りますが、足利のススメもあって京都にまるまる移ってしまいます。

それから数年、護良親王の子が、日蓮宗に帰依し、父の供養のために鎌倉に訪れ、妙本寺を建てます。
これがこの寺の始まりです。

室町では栄、江戸では徳川の保護が篤く、良い状態を維持したまま今日までに至っているそうです。

境内の見どころとしては、 「舞踏家さんたちが使っていた扇を供養する扇塚や、日蓮大聖人塔や日叡上人の墓」などです。
宗派としては、日蓮宗の新派によるお寺だそうで。


寺ではありませんが、書物フェチの北条男子がいた金沢文庫とはまるで違いますね。
こっちは北条が崩落した後、保護されることもなく、長い間盗人の温床だったそうです。
結果、多くの貴重な財産を失いました。
最終的に伊藤博文さんがココ政府の書物庫として使うべwwといって、
数百年の後、ようやく再興したという経緯があります。

宗教がバックに居るかいないかで、こうも強みとしての差が現れるんですねぇ…


さて、今回のガチ目的地3つ目。荏柄天神を再び目指します。

鎌倉の古建築めぐり(妙法寺)







こちらは本覚寺、白と黒で統一された、ビジュアルの美しい寺です。
日蓮宗の寺院で、山号は妙厳山だそうです。
ただ残念なのは、今回訪れた時は本堂が改修工事中だったらしく、
その美しさを写真に収めることができませんでした。
詳しくは、以前の鎌倉散策の記事でも参考にしてください。

本覚寺





解説としては、
元は、鎌倉幕府開幕時に、南西の門(裏鬼門)にあたる方向の鎮守として建てられた天台宗系のお堂だったそうです。
後に、日蓮がこのお堂に滞在し、辻説法をのたまう拠点にしたそうで、その数百年後に日蓮宗に改宗し、
本覚寺を建てたそうです。ちなみに、そのお堂は、今の本覚寺の山門があるところだそうです。

ちなみに、この本覚寺の全身であるお堂(夷堂)も、明治時代の神仏分離のアオリを受けているそうです。
本覚寺創建時はお堂もまだ境内にあったそうですが分離令を受け、近所にあった七面大明神と山王台権現と合併し、
以前上げた蛭子神社になったそうです。調べてて知りましたが、マジびっくり。

さて、シメは荏柄天神さまです。僕ぁ、菅原道真公に中学受験ときからお世話になっているので、
今回も挨拶をしておきましたよ。Sekikaさん、巻き込んですまん。







辻説法跡碑

途中、いつも目につく辻説法さんの石碑を目にします。
久々なので辻説法の歴史をど忘れしましたが、
気にもとめずSekikaさんに大口叩いて知ったかぶりをした源太郎です。
お恥ずかしい限りですね、恥知らずです。

辻説法を通り過ぎて、今度は次の神社が現れます。







蛭子神社



とりあえず、荏柄天神の前に、ひるこさまを通過するので、一礼しておくことに。
いつも行くのがお盆前後だったというのもあるのでしょうか、いや夜だからか…?
境内が駐車場兼、神社という体をなしているせいか、境内には車がわんさかいました。まじかよ…。
いつも来る夏のお昼時は人も車もいないので、この神社に座り込み、お茶を飲みながら蝉の声を聞いてます。
割りと隣家が目の前なので長居はできませんが、まったりするにはちょうどいい質素な神社なのです。

さて、こちら普通に読めば、えびすじんじゃ、と読めますが。
実のところ、ここ鎌倉のは、ひるこじんじゃ、と読みます。

ヒルコといえば、イザナギとイザナミの間に生まれた最初の神ですが、
子作りでトチって不具の子になってしまいます。By古事記
結果、葦の舟に入れられオノゴロ島から流されることになってしまう、出落ち神です。
(日本書紀では、はじめの神ではないものの、その後のオチは同じらしいです。)

そんな描写なため、最盛期GONZO(旧GONZO)最後のアニメ作品「シャングリ・ラ」では、醜悪な異形の者に
この名が与えられています。他のサブカル作品でもしばしばそういった描写がみられるとかなんとか。
今期で言えば、ブラック・ブレッドがそうですね。力ちゃんが演じる改造人間のアイツ。

そんな神様ですが、えびすとヒルコが同じ漢字という経緯は、
弁財天同様、習合・合一の流れがあったためと考えられています。
なので、祀られてるのが、ヒルコでも、えびすでも、意味合いが同じだそうです。
詳しくは、ググってどーぞ。


では気を取り直して、荏柄天神を目指します。

蛭子神社 -Wikipedia-







はいこちらがラスト神社、荏柄天神様です!!! もう真っ黒!!しまってるYO!!!!

荏柄天神


時間が合わず、閉門していました;;; 滅入ったので写真ナシです;;
ただ、Sekikaさんはお仕事を辞めるーと言っていたので、
今後の就活がうまくいくように、門前でお祈りすることに。もちろん自分の就活も;orz
合格祈願でも有名な学業の神様ですし、ひたむきに頑張る人の厄祓いはしてくれるはずです。
道真公は、アニメ:ノラガミにも出てきますしね、関係ないけど。

ラストに解説!
前も説明したかもしれませんが一応。
太宰府天満宮や北野天満宮と並ぶ日本三大天神の一つで、菅原道真公を祀っている神社です。
受験シーズンが近づくと、一気に人が増えますが、その前だったら割りと閑散としており、
絵馬を書くために用意された椅子とテーブルでまったりできます。

鎌倉時代に、頼朝が幕府開府にあたり、鬼門の方向の守護社としてココを造営したそうです。
そののち、豊臣秀吉の命で、徳川家康が社殿の造営を行ったことも有名だそうです。
後の三大天下人のうち二人が関わっている神社とあってか、他の天満宮よりご利益がありそうですな。

荏柄天神社 -Wikipedia-
荏柄天神社 -本家HP-



荏柄天神を出たあとは、なぁなぁに鎌倉駅を目指してほっつき歩き、僕とSekikaさんは帰路につきます。






◆総評◆

これにて、今回の鎌倉探訪は終了です。
半分位は前とかぶっていますが、それでも新しい鎌倉の一部を紹介できたと思います。
公私ともにいろいろ思うところはありましたが、今回もまた楽しかったです。




★行った場所★

行った場所へのリンク

※↑重いので要注意